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ホーリーと観劇! part 6 「私の感性」

・・・ 3年目に突入!
    でも、まだ2006年の話 ・・・

「感性はみんな違う!」

 観劇に先駆けて読んだ()聞いた藤本としさんの本の朗読。朗読ボランティアさんが
読み録音してくれた貴重なテープ。そのお陰で、視力を失っても聞く読書ができ、
観劇前に予備知識を仕入れることができます。(感謝)

 点字図書館の存在を知る前のこと。テレビのリモコンを持って、日がな一日
テレビだけを相手にしていた頃、徐々に視力が落ちる病気で、当時は残存視力が
あった知人が、自転車に山ほど朗読テープを積んで持ってきてくれたことがありました。

それらは市販されているテープで、全てタレントが朗読・録音された物でした。
が、それは、残念なことに、本を丸々一冊読んではおらず、一部抜粋で短くしてありました。
それでも活字に飢えていた私は、ようやくリモコンと決別することが出来たのです。

当たり前ですが、朗読は上手でした。効果音も使われており、タレントは朗読で
演じ、まるで一人芝居を聞いているようでした。それなのに、たくさん聞いて
いるうちに飽きてしまうのです。読書好きの私です。どうしてか判りませんでした。

後にボランティアの朗読テープを聴いた時、私は「与えられた感性」について
考えさせられました。今回の観劇は、あのときのタレントが演じていた朗読と
同じでした。

 もし視力があれば、ライトで、暗く明るくなる劇場の印象や、その時の役者の
動き・台詞・衣装の効果でストーリーの現実性が深まるでしょう。
でも、それらが何の効果も持たない私のような者にとって、大切なのは役者の
声から受ける印象だけです。動きも表情も、役者の演技をもり立てるそれら全てを
除外したとき、あいてを捕らえ心をガッチリ掴みシンパシーを与えられるのが
その役者の持つ「訴える力」。そんな気がします。

もちろん、効果音には刺激されますが、私の感性は訴えます。「どうしてここで
雷鳴が必要なの?」と。そして盛り上げるための予測もつくのです。
「そろそろ来るぞ!」って。強調する部分を声高に力を込めて言うのではなく、
静かに淡々と語っていても伝わって来るものはあります。残念ですが、一人芝居は、
朗読ボランティアさんが、訥々と読んでくれたテープ以上に、私に何も与えてはくれませんでした。

 芝居も終盤に近づき、話しには更に力がこもります。万雷の拍手。
でも、ホーリー君はブラボーとは吠えませんでした。ホーリーの感性の話しではなく、
単純に吠えなくてよかった!と言う程度の意味です。(汗) 

劇中、途中の雷鳴の場面で大きい音に驚き、一度だけ立ち上がってしまった
ホーリー君でしたが、「大丈夫、大丈夫」となだめ、それから再度ダウンの姿勢。
彼が安心するようずっと背中を撫で続けていたら落ち着いて、以後はそのまま
ダウンしていました。

「盲導犬なのに?」といぶかる肩もいらっしゃるでしょう。でも、我々より格段に
聴力の発達している彼らです。場内の大きな音を不審がっても当然。
吠えなかったことを褒めてあげて下さい。と書くと、「だったらそんな場所に
連れてこなければいい」と聞こえて来そうです。この辺の話しはいずれまた。

 こうしてホーリー君との初めての観劇は終わりました。思うに、
知人が持ってきてくれた、タレントが朗読したたくさんの市販のテープから感じた
違和感は、そのタレントが感じ演じた感情だった。と言う事です。時々は
重なったけど、本から伝わってくるもの、著者が伝えたかった事、どこで読者の
アンテナが何を受信するかは読み手の感性。私のそれが彼らと違っていたんです。
共感とはそう言う事じゃないでしょうか。

 朗読ボランティア産たちって、ごくごく普通の人たちだと思います。それでも、
その朗読が私たちに与えてくれるものは、自らが感じる自由。人名を調べ感じの
読みを調べ、ただただ性格に、本を読むと言う無色透明の行為。そこには、
作り出され与えられた感性が、足下にも及ばない思いやりがあります。
朗読はあれでいい。イヤ、ああでなくてはならない。それを強く感じさせられた
観劇会でした。

 End

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